分厚い曇間から差し込む陽の光 ―被災地ルポ2(釜石・宮古)
今日も、友だちの友だち・・・の報告記事と
写真をそのまま掲載します。
大浦佳代さんというライター&フォトグラファーさんです。
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海と漁の体験研究所、大浦佳代です。
4月20日~23日に、さまざまなご縁がある、岩手県の釜石、宮古の漁師さんたちをお訪ねしてきました。見聞きしたことはほんのわずかですが、少しお話させていただきます。
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今回、改めて驚かされたのは、同じ岩手県下どころか同じ市内でも、浜ごとに状況がそれぞれ異なっているということ。沿岸の地形、漁法や漁業形態の違いによって、津波被害の度合いは本当にまちまちです。地域社会のありようや年齢層のからみもあり、シロウト眼に見ても、復興への道筋は、浜ごと漁家ごとに事情が異なることが想像できます。
たとえば、釜石市には釜石東部、釜石湾、唐丹町の3漁協があり、すぐ北隣には大槌町漁協があります。大槌町は津波の被害が甚大で、漁村のコミュニティは内陸部への避難で離散した状況だそうです。一方、唐丹は地形的に、近隣地域に比較するとやや被害が小さく、漁協の建物も機能を維持。釜石駅前のお土産センターでは、わずかですが唐丹産の新物ワカメが売られていました。漁協組合員の構成もまた一様ではなく、さらに同じ漁協でも細かく見ると、後継者が多く活気のある純漁村もあり、年金世代が多い地区もありさまざま。
宮古市の場合も同様です。震災後1か月半でようやく理事会が開かれた組合もあれば、組合員の平均年齢が55歳とバリバリに若い漁協では、震災の1 週間後には復興の方針が決まり、携帯電話がつながるやいなや、養殖資材や船外機の発注をかけまくったと聞きました。
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釜石市と釜石湾漁協は、横浜の環境NPOと10年来の交流があります。このNPOが横浜港内で環境活動として行っているワカメ栽培を釜石が支援したのが縁。毎年、横浜から釜石を訪ねる体験交流ツアーも行われています。
とくに交流の深い白浜地区は、釜石湾を抱く岬にあります。岩手県沿岸の漁業はたいていそうですが、家族経営のカキ・ホタテ、ワカメ・コンブの養殖、アワビ・ウニの磯漁が中心です。中でも、アワビ漁にはものすごい技術があります。箱メガネで海中をのぞき、長い竿の先につけたカギで、なんと水深20mのアワビをとるのです。名人の域に達すると、わずかに届かない深さでは竿を岩に投げつけ、バウンドを利用してアワビをカギにひっかけるそうで…。もう神業というしかありません。ここは、そんな「海の民」の土地です。
今回、白浜は144世帯のうち35世帯が全壊し、4月20日ごろにはまだ約70人の方が、小学校で避難生活をされていました。わたしがお訪ねしたちょうどその頃、仮設住宅の用地を地区内に確保でき、「集落が散り散りにならずにすんだ」とみなさん喜んでいました。
地震直後、白浜に通じる岬の道路が寸断され集落は孤立しました。もちろん、電気、水道、電話もストップ。食糧などの物資が最初に入ったのは1週間後、海上から船で届いたそうです。道路復旧はさらにその数日後。それまでの間、お年寄りや持病のあるひとの薬を手に入れるために、若者が2人1組になり1日がかりで歩いて市街地まで通ったといいます。
孤立していた間、全戸が避難所の小学校で共同生活を送りました。食糧は無事だった各家から集め、全戸の女性が加入する漁協女性部が、行事のときのように「いつもどおり」当日の夕食から炊き出しを開始。各家の冷凍庫からアワビやウニが放出され、超豪華な食事だったと笑い話のように聞かされました。
男たちは「この際、生きるためには法律も何も関係ない」と、道路に置き去りになっていたタンクローリーを集落に持ち込み、燃料を確保。林道工事現場の重機を山から下ろして集落内に道路を開いたり、山水を避難所に引きこんだり。見事に自立し、規律ある生活が営まれていたそうです。
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99%漁業で生活している白浜地区。津波は美しい磯浜の風景も、漁船も各種養殖いかだも、個人の加工施設も、倉庫も漁協支所の建物も、一切合財をのみこみました。
「40年かけて築いたものをすべて失った。まだ現実とは思えない」と、アワビ漁名人のHさん(60)。幸い家族と高台の自宅は無事でしたが、収穫目前のワカメ、節目の作業を終えたばかりのカキ、ホタテのいかだ、5 隻の漁船と漁具、作業所と加工施設、倉庫、すべてを失いまた。しかし、「60歳になったがまだやれる」と、再出発の決意を固めていました。
「漁師は海でしか生きていかれねのス」と、海に出られない毎日がもどかしそうです。毎朝起きるとすぐに浜に出て、しばらく海を眺めるそうです。
やはり漁師の2人の息子とは別経営。奥さんと2人でゼロからの再出発です。どんな作業も夫婦一緒ですが、アワビ漁では船を操るのは奥さん。じつは女房あっての名人なのです。
奥さんは「嫁いでから30数年のあの苦労は何だったのか。もう年金暮らしでいい」と弱気でした。しかし、Hさんに「オメ(お前)がいなかったらオレもやめるべサ。もう1 回一緒にやるべ」と口説かれて「そんなこと初めていわれた…」と、あとはもうただ涙でした。
生活を支える漁業の復興は、何はともあれ漁船の確保から始まっています。白浜地区には、15人もの若手漁師がいます。この若手とHさんら60歳前後の中堅が団結。「漁協や行政に頼りっきりではなく、自分たちでも何かしなくては」と津波のショックからすばやく立ち上がりました。支援の手を差し伸べた横浜のNPOを通じて、各地から中古船や船外機を求める流れができつつあります。
修理をすれば使えそうな船もあります。そこで技術と経験のあるS さん(47)や、Hさんの長男で3人の子育て中のコウチャン(32)、ヤッチョさん(41)ら若手が、「自分たちで直せるものは直したい」と横浜のNPOに相談。先日、工具や船体の原材料、発電機、手動クレーンなど一式を満載した車が横浜から到着。「これで1歩前に進める!」。出迎えた漁師たちの、まるで分厚い曇間から陽の光が差し込んだような笑顔が、とても印象的でした。
例年6月からはウニ漁の解禁です。岸壁についていたウニをヤッチョさんが見つけて、ひと口。「おっ、大丈夫。重油くさくない、美味いよ」とにっこり。
帰りにひとりの漁師さんから、少なくとも2年は手に入らない貴重な養殖の塩蔵コンブをお土産に持たされました。世話になりっぱなしをよしとしない心意気でしょうか。それにしても、自然相手に暮らすひとの強さ、温かさ、豊かさです…。
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漁協の強いリーダーシップで地域漁業の復興を目指しているのが、宮古市、重茂(おもえ)半島の13浜を統べる重茂漁協。組合員の平均年齢は55歳で、40歳以下の若い漁師がなんと94人もいます。
岩手県一裕福ともいわれる重茂漁協でも、津波被害は甚大でした。まず漁船。無事だったのは全地区合わせても14艘のみ。養殖や磯漁に使う小型船は、780艘のうちたった6艘しか残っていません。漁協直営の加工場、定置網は大きな被害を受け、アワビの種苗育成施設、サケの人工ふ化場も、ほぼ跡形なく流されました。
30年以内に99%の確率との予測があり「大津波はいつかまた来るだろう」と誰しも覚悟はしていたそうです。しかし今回の津波の規模は予想をはるかに超えていたといいます。
若手が多い重茂では、「1日も早く道筋をつけないと後継者層が流出してしまう」という危機感に背中をあおられるようにして、復興を急いでいるように感じました。「長くても3年以内に漁業で暮らせる見通しをつける」というのが、漁協自らがはじき出した期限です。
立て直しの初動は、船外機と資材の確保でした。今後は修理した船による共同作業で、1日も早い漁業の再開を目指すといいます。まずは5月の天然ワカメから。その後、7月には「何か何でも」養殖ワカメの種とりをする意気込みと決意。ワカメは来年3月には収穫期を迎え、お金に換えることができます。そこで、復興に気持ちの弾みをつけたい考えです。
「国が打ち出した“漁村集約”の発想は、とんでもない見当違い。小さい漁村があるからこそ、この地域の漁業は成り立っているんです」。重茂漁協の伊藤組合長はそう強く訴えます。家族単位の経営体が寄り添い助け合う浜ごとのコミュニティが、これまでの地域漁業を支え、そしてこの非常時を乗り切るために不可欠な結束力になっているのです。
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どの地域でも、アワビなどの生物資源と、海の環境変化が不安材料だという声を聞きました。海水の透明度はまだかなり低いといいます。壊れた防波堤や岸壁など、港湾の復旧も必要だし、海底のがれき除去も大きな課題です。県によると、海底のがれき除去で国庫補助の対象になるのは、漁港区域のみだそうです。「漁場については県が漁業者を雇用して行うしかないが、県も財政難で現状は厳しい」という話でした。
「水揚げの半分はがれきです。電柱や車など“大物”も多いですよ」。こう話すのは、宮古市で底引き網漁を営む株式会社の社長さん(56)。
同社は、319トンの遠洋マグロはえ縄船2艘が南太平洋で操業しているほか、75トンの2艘引き底びき網漁(トロール)を、岩手県の沿岸で行っています。地震発生時、底びき網の船はちょうど宮古の魚市場で水揚げ中だったそうですが、魚をほったらかしにしてすぐさま沖合に避難。船も乗組員20人もすべて無事でした。社長業は陸の仕事で、当日は会議で東京に出張中。「子どもたち、船、最後に女房の順で、安否に思いはせた」と冗談めかしていいます。「底びき網漁船は、1艘が4億5千万。被災していたら廃業したでしょうね」。
震災後の初出漁は、県北、久慈の魚市場再開に合わせ、4月5日でした。その後11日に宮古の魚市場が復旧したため、本格的に漁を再開しました。ところが、「宮古の沖合で網を引き始めたら、がれきが多くて驚いた。網の修理が大変」という事態に直面。
網を引くのは、水深200m~700m。200mの場所でがれきが多く入るそうで、1日の操業で3~4トン。すべて持ち帰っています。国の予算で海底清掃が組まれましたが、詳しく聞いてみると、乗組員にいくらかの日当と燃油代半額の補助のみ。しかも魚の水揚げは禁止。「漁師をばかにしている」と、この話は蹴って、赤字だけれども毎日操業しているそうです。
現在、魚価は震災前の半額以下。しかもかまぼこなどの加工場が被災して製造を中止しているため、原料のゲンゲやカジカなどの魚類は、キロ1円という“破格の”浜値です。
「でも、漁師が魚をとってこないことには、漁業に関連して食っている宮古の町の復興はない。ここが漁師の心意気の見せどころってやつでしょう!」と、オトコマエな発言。かたわらで奥さんが「まったく」と苦笑いしながらも、惚れぼれと見守っていました。
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本当にわずかな見聞です。それでも地域の数だけ、家族の数だけ、事情はさまざまでした。
国や県の補助制度が確定していない現段階では、漁協など組織も各漁家も、再投資の計画は模様見の段階かもしれません。しかし、どの地域であれ、せっかくやる気のある若い世代が漁業の道を選び続けられる仕組みが、本当に求められていると思いました。
子育て世代の若い漁師さんたちからは、共同作業の配分について不安の声も聞こえました。
復旧期の今はわき目もふらずに必死でも、1年たったときにはどうなのか。重茂漁協の「リミットは3年」という必死の声もうなずけます。
遠く離れているけれど、わたし(たち)には何ができるのでしょうか。やはり、ささやかだけれど縁のある個人や地域に「応援している」と、地道に長く声をかけ続けることが大事なのではないかなと、思いました。小さな船1 艘の支援がどれだけ励みになるかを、釜石の白浜では目の当たりにしました。
小さな漁村の夫婦愛、家族愛、そして海への愛着が、日本の海洋文化を、わたしたちの食を支えてくれていることを、今さらながらとても愛おしくありがたく感じています。
お力添えいただいた、すべての方に心から感謝申し上げます。ありがとうございました。
(2011/04/28 海と漁の体験研究所、大浦佳代)
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雲間から差し込む一筋の光に希望と勇気を。
以上、「オペレーションTOMODACHI」第二弾でした。
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